「現代人の仏教教養講座」

 

「浄土真宗」入門講座

浄土真宗の大切な所をわかりやすく解説

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生きる意味を、知ろう。

西本願寺と東本願寺の違い

講座を開いた休憩の時間などに「何かご質問はありませんか?」と聞くと「西本願寺と東本願寺はどう違うのでしょうか?
という質問は結構あります。
ずっと疑問に思っておられたのでしょう。
一体なぜ本願寺には、西と東があるのでしょうか?

織田信長に10年間引けを取らない信の力

本願寺が東西に分裂した原因は、1570年から1580年までの10年間、織田信長と石山本願寺が間戦った石山戦争までさかのぼります。

本願寺は、8代目の蓮如上人の後、11代目の顕如上人のときには、最高の寺格をもつ門跡となりました。
イエズス会のフロイスが、
「財産、権力、身分において、つねに他の僧侶たちに比べ最高位にあった」
と言うほどの勢力を有していました。

ところが1568年、織田信長は、諸国の関所を廃止し、矢銭という軍事課税を課しました。
本願寺にも五千貫の矢銭を課してきます。
このときは顕如上人は、争いを避けるために要求に応じます。

ところが、1570年、本願寺と連携した三好三人衆を壊滅寸前まで追い込み、軍を進めます。
こうして本願寺対織田信長の石山戦争が始まったのです。

桶狭間の奇襲によって、戦えば勝ち、攻めれば落ち、朝に一城、夕に一国と領土を拡げ、群雄草の如くなびかせ、五畿内の猛将を馬前の塵に蹴った織田信長も、
進めば極楽、退けば地獄
と書いたムシロ旗をかかげて一死報恩の覚悟で戦った「南無六字の城」の為に、実に前後十数年の持久戦を続けざるを得ませんでした。

このことを江戸時代の歴史家、頼山陽はこう驚いています。

豈はからんや、右府千軍の力、抜き難し、南無六字の城

信長が天下統一のチャンスを失ったのは、実にこの無用な戦の為だったといわれます。

和戦派と抗戦派の分裂

1580年、織田信長は正親町天皇を仲裁にたてて和議を求めて来たのですが、この時開城するか抗戦するかで本願寺内の議論は真っ二つに分かれたのです。

それが、東西本願寺分裂の遠因となりました。

顕如上人と末子の准如とは和解の勧めに従おうとしたのに対し、長男の教如は籠城して徹底的抗戦を主張してゆずらず、きびしく両派は対立することになりました。

一朝の思いつきで叡岳三千坊を焼き払い、高僧から美女小童に至るまで数千人を火中に投げ込んだ織田信長。
またすでに和解したにもかかわらず、残虐非道な大量殺りくが行われた長島一揆などを知っていた教如は、信長のやり方がどんなものであるか骨身に沁みていたに違いありません。

そこで顕如上人は己に順わない教如を義絶し、弟の准如をたてて御真影と共に和歌山の鷺の森別院へ移ったのです。

ところが果して、姦雄信長の軍勢は、その後間もなく雑賀騒動を機として、浄土真宗殲滅を期して追撃して参りました。

その時の総軍師が明智光秀だったのです。

明智光秀の三日天下

1582年6月、暁の風を切って粛々と進む光秀の大群が大江山にさしかかるや、右すれば備中に走る道を
敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり
と馬首一転、鬢髪をふり乱した美少年の森蘭丸に護られた織田信長が49才の生涯を火中に葬るという一大悲劇があったため、危く本願寺は救われたのです。

だから三日天下の明智光秀は浄土真宗にとっては大恩人ということになります。

後日このような事変を知った顕如上人は教如の義絶は解きましたが、親子の溝は深まるばかりで、やがて教如をおいて弟の准如へ本願寺12代目の宗主の職をゆずることを認めました。

豊臣秀吉によって西本願寺ができる

その後、戦乱はおさまって、利口な秀吉は、さわらぬ本願寺にたたりなしの態度で、本願寺とは常に協調を心がけていました。

1587年、九州の嶋津攻略に准如を同行させ、薩摩門徒に道案内させています。
1591年、顕如上人は、現在の京都の西本願寺がある土地を秀吉から寄進されます。
1592年に顕如上人が亡くなると、教如が本願寺を継いで、石山戦争での抗戦派を重く用いました。
ところが、顕如の妻の如春尼が、准如に法主を継がせるように秀吉に訴えます。
やがて秀吉の裁定が下り、教如は隠居して准如が本願寺の十二代目となったのです。
これが今日の本願寺派であり、西本願寺です。

徳川家康によって東本願寺ができる

1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が豊臣家を打ち破ると、教如は家康に接近します。
徳川家康は天海僧正の謀略によって、この不遇をかこっていた教如に目をつけ、本願寺勢力の分割を謀って、1602年に寺地を寄進します。
1603年に、教如は東本願寺を別立し、第十二代目となります。
これが現在の大谷派であり、東本願寺です。

その後、幕府は浄土真宗を支配体制に組み込むために、本寺、末寺の関係を報告させます。そのため1650年頃まで、各地の末寺は西本願寺に着くか、東本願寺につくかという問題が起きました。東西本願寺でも、勢力争いが起きますが、だんだん固まっていきます。教如が家康に近づいたため、江戸時代はどちらかというと東本願寺が主流となりました。
明治時代に入ると天皇家と仲良くした西本願寺が勢力を伸ばし、東本願寺は分裂して勢力を弱めます。

東西本願寺の冷戦の現状

こうして浄土真宗の勢力は真っ二つに分断され、東西両本願寺は冷戦を続けるようになりました。
西が御影堂を南に置けば、東は北に建てる。
片方が『御文章』と言えば一方は『お文さま
一方が『領解文』といえば片方は『改悔文
西が報恩講を正月に勤めると、東は十一月に変える。
その他、僧侶の位階、学階、仏前の荘厳、『正信偈』の読みぐせまで一々変えて、互いにいがみ合うようになったのです。

まことに愚にもつかない意地を張っているとすれば、情けないかぎりです。

現在の浄土真宗は、葬式法事仏教となり、東西本願寺はじめ真宗十派は日に日に衰退しています。そんないがみ合っている場合ではありません。
親鸞聖人のみ教えのもとに団結して、一人でも多くの方と浄土真宗の教えを学ばせていただきましょう。

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著者紹介

この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生おさなみみずき

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後、仏道へ。仏教を学ぶほど、その深い教えと、それがあまりに知られていないことに驚く。何とか仏教に関心のある人に知らせようと10年ほど失敗ばかりした後、インターネットの技術を導入し、日本仏教学院を設立。著書2冊。通信講座受講者3千人。メルマガ読者5万人。執筆や講演を通して一人でも多くの人に本物の仏教を知ってもらおうと奮戦中。

仏教界では先駆的にインターネットに進出。メールマガジンや、ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。先端技術を駆使して伝統的な本物の仏教を一人でも多くの人に分かりやすく理解できる環境を作り出そうとしている。メールマガジンはこちらから講読が可能